エストニアから帰国して

3週間が経ちました。

私は何も前進していません。

 

むしろ後退している様なそんな感覚。

 

メディアの影響、想像していたものではなかった現実

そういったものにちょっとやられて、今まで生きてきて一番落ちています。

 

ご飯が喉を通らなかったりも。

もう少しだけ、気軽に気楽に考えられたら楽なのに。

 

このままYahooにいても、できることはできるかもしれないし。

そうは言っても納得感を見出せないところに身を置くことの方が怖い。

 

 

何かを与え続けること

ルームメイトはいつも私にお菓子をくれる

 

UCはいつも友達を紹介してくれる

 

エストニア人の仲良い起業家Alvarさんはいつもおうちに招いてビールをくれる

 

今日会ったLingvistのCo-Founderは、この後どこかの国の大使館との面会があるというのに朝9時から私たちに向き合って話をしてくれる

 

高倉さんは何も知らない中でご飯をご馳走してくれてたくさん話を聞いてくれた

 

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見返りとかじゃない

 

そんな人になりたいと、エストニアに来て、本当に何度も思わせられる。

 

自分のドロみたいな部分もたくさん見えて、苦しいけど、悪くはない。

 

 

後2週間で出国です。

バルトに会いに行っても

こんにちは。

 

今日はバルトに会いに行った帰りです。

 

 

 

 

 

 

バルトっていうのは、元大関把瑠都さん。

相撲界においては有名だし、そうじゃなくてもバラエティとかドラマに出ていたので、そこまで知らない人はいないんじゃないかと思う。調べてみたら、オフィス北野に所属していた。最近では、ドラマで佐藤隆太さんと共演していたようである。

 

 

 

 

私の祖母は相撲好きでよく見ていたので、リビングで「把瑠都ー!」とか言っていた事を思い出す。

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(現役時代の把瑠都

 

 

まあそんな昔話はさておいて、5月12、13と1泊、バルトの経営している宿に泊まって来た。

タリンから車を120キロで走らせて約1時間半。

 

 

バルトとバルトの兄ちゃんが待っている宿に着き、池に落ちたりボートを漕いでまた落ちたりしながら夜はバルトとBBQをして、少し早く起きた朝は散歩・湖畔でストレッチしたのちにバルト嫁の朝ご飯を食べ、息子と猫と少し戯れ、広い家と庭を見せてもらったのちにバルトの要らないガジェットを引き取って来た(wifiルーターとか液晶パネルとか)

 

バルトに暮らしていながら、ここまでバルトに溢れた週末は初めてだ。

 

彼の話やらを聞き、大豪邸にお邪魔させてもらう事で、また私は「幸せって何かなあ」と考えていた。

 

 

 

 

彼は日本から帰って来て約1週間。

 

「疲れた」

 

 

と愚痴をこぼしていた。

 

 

 

 

 

 

 

狭苦しい東京。

 

行きたくもない付き合いの飲み会。

 

先輩後輩というカルチャー。

 

年金という、将来の投資とは思えないいわば退職世代へのサポート金。

 

制度も現場も改善の余地ばかりの教育環境。

 

 

 

 

彼はエストニアの、その田舎の暮らしとは真逆の雑多な街東京で14年を過ごし、エストニアに帰るという選択を取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここにいると、幸せの定義みたいなもんはよくわからなくなってくる。

 

ヨーロッパの人の夏の休暇に対するコメントを聞いていたり、子育ての様子を見ていたり〜ここで生きている日本人の話を聞いても、それまで生きて来る中でなんとなく形成されて来た「こうしたら幸せになれそう(ex.高学歴とか)」的な考えは意図も簡単に変化していく。変化まではしなくとも、完全それとは思わせない、何か。

 

 

 

 

今の所自分の見解としては、全ては自分の周りの環境。

 

 

いくらお金を手にしても、いくらいいポジションになっても、何をしても環境が自分で納得できなかったらすごく不幸せだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

初めて池におちて泳いだし、朝から朝日を浴びてストレッチをしたし、今日は高い気にも登った。

 

 

バタバタしていて忘れていた子供の気持ちが、すごく戻って来た。

 

いい感じ。

 

 

それにしても今日も恋人に会いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼の好きなグミをスーパーで手に取ってしまうから 

恋愛ってマジすごいわ〜。

 

 

高校生の頃に抱いた感情である。

言葉としてはなかなか浅そうな感じでであるが、あんなに胸に何かが突き動かされるような経験は初めてだった。

 

 

 

 

 

最初のブログで綴ったが、幼い頃から形成されてきた自分のスタンスとしてはこんな感じ。

 

 

 

「人に甘えられない」

「なるべく迷惑をかけずに自立して生きる」

「強くなくちゃいけない」

「自分のスペックを高くする事が大事らしい」

 

 

 

まあそういった感じ。

あまり可愛くない子供だったかもしれない。(そういう部分を態度にもそこまで出さない部分まで含めて可愛くない)

 

 

 

 

しかし、高1で彼氏ができ、彼との関係を進める中で自分がどんどんオープンになり、自分のためではなく「相手のため」の時間がどれだけ幸せなのかを感じるようになった。

 

また、人に頼れる自分を見つけた。少しずつだったけど。

 

 

 

 

自分のために頑張っている自分はあまり好きではない。

ストイックとたまに言われることもあったが、そんな自分は好きではなかった。

 

 

 

行動におけるゴールが、”自分のため”では自分が追い求める理想が高ければ高いほど、自身の「出来なさ」に落ち込むし、正直ゴールなんてものは見えてこない。

 

永遠に自分というものとの戦いである。まあ自分に満足できるタイプならいいのだけど、元から自己肯定感が低いから。満足値みたいなものがそもそもわからない。

 

 

けど、どんな時の自分が好きかって、「相手のことを思って動いている自分」だ。

 

 

めちゃめちゃ人間らしくないですか?

 

 

 

 

彼が好きなお菓子を思わず手にしてしまう瞬間

 

彼とのデートのための服を買いに行く時の気持ち

 

彼が自分の人生に舞い降りただけで、人間らしくなって、自分の感情が手に取るようにわかる。

 

 

 

 

 

 

自分のための投資の時間ってそこまで自分にとって魅力的じゃない

 

 

もちろん恋人だけではないが、自分とその周りの人のための投資の時間を増やしたい。

 

増やしたい、というかそうやって生きていくんだろうなというイメージがなんとなくある。

 

 

 

 

 

家族、友達、コミュニティ。。

 

 

影響を及ぼしていけるような自分の生き方したいな。

結局は横にいる人といつまでも笑っていられる人生がいい。

 

 

 

帰属するところ。

 

 

人の不幸は蜜の味とか嘘やろ! 

人の不幸は蜜の味

 

 

そんな言葉が日本にはあるが、世界ではどうなのだろうか。

少し調べてみたら、ドイツ語にはあるらしい。

 

Schadenfreude (シャーデンフロイデ)

ドイツ語で、「他人の不幸を喜ぶ気持ち」を指す。英語には該当する語がないため、そのままドイツ語を使っている。

 

 

脳科学的に人の不幸で自身の幸福度が上がるという実験もあったそうなので、なるほど本当のことなのかもしれない。

 

 

 

 

 

先日リトアニアに行って来たのだが、あまりにも幸福の瞬間が街にあふれていて、自分自身がめちゃめちゃ幸せを受け取って、深呼吸をめちゃめちゃした。

 

 

 

 

 

幸福の瞬間って不幸の瞬間より人を幸せにすると思うのです!

 

 

 

 

 

 

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例えばこの写真。

 

 

 

日曜日の朝。

 

 

おじいちゃん達は釣りをしていて、キラキラ光る湖面を見つめていた。

 

お互いに違う場所でやっていたけど、移動して二人で一緒に釣りをすることになった。

一人より二人の方がいいよね。

 

犬はおじいちゃんにとても懐いていて、賢くおじいちゃんの後を追い、湖畔でのんびりとしている。きっと一緒に暮らして長いんだろう。

 

 

彼らはソビエト時代も経験しているから、こういった時間を容易に得られたわけではない。独立して平和な今は、のんびりと釣りをしている。それができる。

 

 

 

幸せな朝だ。

 

 

 

 

 

 

一方親子3人組は、公園に散歩に来ていた。

 

湖にいるカモの鳴き声に合わせて「ぐわっ」と真似をする弟と、

いろんなものに興味津々・うろうろあたりを歩き回っているお姉ちゃん。

 

お母さんは二人の子供の後を追う。

 

 

 

二人の子供を持ち、下の子も歩けるようになったから、お母さんはベビーカーなしで散歩に来れるようになった。

 

 

途中泣き出す弟をあやすお母さんに、お姉ちゃんはちょっと嫉妬しちゃうのかもしれない。だけどもうすぐ一緒にかけっこして遊べるね。

 

 

 

 

この一枚、切り取られた1枚に色々な人のストーリーが詰まっている。

 

日曜の朝、のんびりとした湖畔のひと時、なんて幸せなのだろう。

 

 

 

 

特に彼らと話はしていないけど、おそらく休日の幸せを吸収しているみんなの姿を見ながら私はとても幸せな気分になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

この写真。

 

 

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カップルがカフェでお茶をしているのだが、カフェの横のウエディングドレスが道を彩っている。

 

 

お互い違う方向を向いているが、もしかしたらこのウエディングドレスをちょっとでも意識しているんじゃないだろうか?

 

結婚をもしお互い考えていなかったらちょっと目に毒だけど、もし結婚を控えていたら二人の心にはどんな気持ちが湧いて来ているんだろう。

 

 

男性の口角が少し上がっていて、なにを考えているのか、未来を考えていたら素敵だなあなどと勝手に考える。

 

 

 

 

 

街には幸せが溢れている。

 

というより、考えようによっては全部幸せに働いていくのかもしれない。

 

 

 

 

先日会った認知科学の研究者の人は、「現在は過去の連続の中でしか起こらなくて、今を不幸だと捉えるのは全て過去の不幸な記憶を自分の中で連続させて今を認識しているからなのだ」と言っていた。

 

 

 

これらの写真の状況も、私が想像したようなものではないかもしれない。

 

 

 

 

けど、やっぱり私は幸せだと感じたし、幸せを見て幸せになれるタイプらしい。

 

 

 

 

人の幸福が密でしかない

 

 

 

 

そういったところでしょうか。

 

 

 

 

 

 

「超個別具体的な話を1対1で聞くこと」に心から熱中してしまうと気づいて幸福度MAXになった!

 

あなたが心から熱中することはなんですか?

 

 

と聞かれたら、私はこう答えるだろう。

 

 

「超個別具体的な話を1対1で聞くこと」です。

 

 

 

 

 

 

これに気づけたことはめちゃめちゃ良い契機だって、気付いた時から、ものすごく幸せな気持ちになった。今もそうだ。自分の好きなことを認識できて、肯定できて、言葉で言えるようになった。とっても嬉しい。

 

 

 

 

 

21歳、女、女子大生。

 

 

 

 

これまで好きなことや趣味がないことを少しコンプレックスに思っていた。

 

 

何か1つの事柄に没頭した経験もないし、興味があちこちと飛んでしまうタイプで。新しいものへのチャレンジが好きだったから、如何せん「継続」したことがない。

 

 

水泳、バスケット、テニス、野球、チアリーディング

トランペット、コルネット、パーカッション、ギター、ビオラ、オルガン、

 

 

 

書き出すだけで山ほどの経験が出てきちゃうのである。

 

 

 

そんな中、就職活動中に困ったのは「あなたの熱中してきたことはなんですか」という問いだった。

 

 

 

上述の通り、あれも〜これも〜体力がある限り色々やってきてしまって、それなりのレベルに達してしまったら「次の自分」を見てみたくて、飛んでいってしまう。

 

 

 

テニス部の副キャプテンは気付いたら2年後に弦楽部の部長になっていたし、3年後にはチアリーダーとしてステージで涙を流していた。

 

 

 

 

 

そんな私だったが、「心から熱中していること」を発見できた。

正確に言えば、「気づかせてもらった」。

 

 

とある認知科学の研究者の方に、人生相談という名の午後ティータイムを申し込んでいて、その方の行ってくれた内省タイムによって改めて自分を見つめ直すことができた。

 

 

 

 

 

「超個別具体的な話を1対1で聞くこと」

 

 

 

 

 

 

認知科学のお兄さんがやってくれたワーク。

 

Time、Money、Space、Energyとあり、自分の大切だと思うものから書き出していき、内省をするというものを行った。

 

 

どの枠よりも先に「Energy」の欄に「誰かの話を聞く、話す」を書き、「恋人、家族の話であればなお良い」、とEnergy2の部分に書いた。

 

 

 

逆に持ち物であったりお金には全く関心が湧かず(ブランド物や高級品には一切興味がない)、強いていうなら人と会うときの交際費かな〜などと欄を埋めていった。

 

 

 

 

Energyの記入からはじまり、自分は「超個別具体的な話を聞くこと」にめちゃめちゃ熱中してしまうタイプの人間だと気付いた。どの欄もそのための道筋であったのだ。(Time=人と会う時間、Money=ご飯代 など)

 

 

 

 

今まで言葉をつけることができなかった、自分の熱中していること・心から幸せだと満たされている時間に名前をつけることができた。

 

これからは胸を張って「私が熱中してしまうこと」をいえる。

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

人のライフストーリーを聞くのが大好きだ。

 

どんな感情に従って、どんな経験から、今私の目の前にいる人が物事を考え、誰を愛し、誰に愛され、たまには誰かを憎み、そして生きてきたのか。

 

 

 

 

 

 

誰だって完璧ではない。

それぞれがあらゆる超個別的な経験の中で揉まれて、異なる価値観を持って生きている。

 

 

人と話すたびに個性や価値観の違いを感じて、話した後はその人と私の関係性が変化していて、笑顔が変わって、めちゃめちゃテンションが上がる。

 

 

 

キラキラとしているように見える人にだって、そうじゃない部分もあるし、人間臭いところもたくさんあって人間って面白くて最高だ。

 

 

 

 

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人の核心に触れた

コアな部分をあなたと一緒に覗くことができた

理解はできないかもしれないけど。

 

あなた を ちょっと しる ことができた

 

 

 

 

 

そんな瞬間に感じる幸せがひとしおなのだ。

 

 

 

だから、人に会うことはやめられない。

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

なぜそうなのだろうか?

 

 

 

これは原体験に基づいているのかなあと思う。

 

 

 

高校時代に付き合っていた彼氏が「オープンになること」「弱みを見せること」は恥ずかしくない、と教えてくれた。

 

 

 

 

母子家庭、長女。

 

迷惑を掛けないように、自分が頑張らなくちゃ、と幼心に思い続けていた自分は、あまり本音を言わない優等生にいつの間にか成長していた。

 

 

 

 

小学校の両親の離婚。

中学の時の母親が心を病んでしまっての数ヶ月間の入院。

 

ただでさえ一人親だったのに、家の中に親がいない状態(2つ年下の弟はいるが)が訪れたりもした。

 

幸い中学校は給食だったからお弁当まで作らなくても良かったが、朝晩家事は色々とやったし、そんな中で苦しくて泣いていたようなこともあったりなど。

 

 

心のどこかで、「強くならなくちゃ」ってずっと思い続けてきたのかもしれない。

 

 

 

そして高校生の時、初めてしっかり人とお付き合いをした。

 

 

 

その彼は私の弱い部分も、過去のバックグランドも、悲しかった思い出やコンプレックスも全て包み隠さず聞いてくれて、そんな私を嫌いにならず受け入れてくれていた。

 

 

初めは話すのが怖かったし、そんな自分を知られて嫌われるんじゃないかと思っていたけれど、そんなことはなかった。

 

 

 

「強くある必要」なんてなかった。彼の前では。

 

 

 

 

 

オープンになることは怖くないし、その人の今は過去の全てから作られているのだから過去を否定する必要はなくて、どんなあなたでも愛してくれる人がいる。

 

 

愛は何一つとして同じものはないけれど、わたしたちの心にもたらしてくれる栄養は計り知れないみたい。

 

 

 

過去の体験、自分が話す、ことで自分自身を曝け出す、相手とストーリーを共有していく、そのフェーズでの自分の変化、相手の変化、関係性の変化。

 

 

 

 

 

 

 

多分、そんなところに喜びと可能性を感じて、私は「超個別具体的な話を1対1で聞くこと」にめちゃめちゃ熱中しちゃうようになったみたいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人の惚気話なんて最高のご褒美だよね!

 

この気づきは一生ものです。ありがとう認識科学のお兄さん〜